令和元年度・北信越地区高P連研究大会・長野大会  ー その2 ー

予告通り、https://www.buko-pta.com/katsudou/5577.html の続編です。

北信越地区高P連研究大会・長野大会の最終日・2日目は、全参加者を対象とした記念講演です。

今年の講師は、会場のホクト文化ホールにほど近い信州大学・教育学部で教鞭をとる 結城 匡啓(ゆうき まさひろ)教授。

御自身もスピードスケート500mでワールドカップ銅メダルという戦績を有し、筑波大学体育専門学群・同大学院博士課程修了。専門は、スポーツバイオメカニクス、トレーニング理論、コーチング論等で、スピードスケートの理想的なコーナーリング法やフォーム作りなどの研究・指導を通じて、幾多の名選手を育ててきました(自らも理論の一被検者です)。1998年の長野オリンピックで、清水宏保選手が、スピードスケートで日本初となる金メダルを獲得するのに貢献して以来、日本選手団のナショナルコーチ陣の一角として、オリンピックやワールドカップに参戦し続けています。

 

清水宏保選手を育てた結城先生を慕って2005年に信州大学に入学してきたのが、小平奈緒 選手。

今回は、この小平奈緒 選手と出会ってから、13年目のオリンピックで金メダルを獲得するまでの、知られざる(結城先生だからこそ知る)12年間にスポットをあて、選手・ご両親・コーチのあり方について、教育や子育てにも通ずる示唆に富んだ本当に中身の濃いお話を聞かせていただきました。

演題はこちら

昨年の平昌オリンピック(韓国)・スピードスケート女子500m。自国の観衆の目の前でのオリンピック3連覇をかけた世界記録保持者(しかも、オリンピック直前に絶好調の)李相花 選手に、オリンピックレコード(平地では世界記録)を出して勝ち、スピードスケート日本女子 初のオリンピック金メダルを獲得した小平選手。自身の滑走の直後、歓声に沸く日本の応援団に対して口元に人差し指をあて、また、ゴールした李相花 選手に寄り添う名シーンを生み出したのは記憶に新しいでしょう。

 

マスコミも、それを通じて物事を見て信じる私達も、これを最たる美談ととらえましたが(それが間違いという訳でもありませんが)、小平選手と常に二人三脚で歩んできた結城先生の目には、真実が見えていました。

http://www.asahi.com/olympics/photogallery/100216highlights/47_ss_leekodaira.html

さて皆さん、講演で見せていただいたのと同じこの写真、「あっ、これこれ!」とか思ったりして・・・。

実は記者も、結城先生に言われるまで気付きませんでしたが、よく見ると、小平選手はスケート靴を履いていません。これは、平昌オリンピックの2大会前、バンクーバーオリンピックの500mで金メダルを取った李相花 選手が、12位と惨敗に終わった小平選手と健闘を称え合っているところ。平昌の、あのシーンの後に小平選手は「私が本当に駄目だった時に、私のもとに来てくれて一緒に泣いてくれたりした。」と語っています。どの大会でも、互いを最大のライバルとリスペクトし合い、自分のベストを尽くす。結果がどうであれ、試合が終わったら(競技は違えど)ノー・サイド(←この言葉はよい言葉だと結城先生もおっしゃっていました)。つまりこの2人にとっては、平昌でも、いつものようにいつもと同じことをやっただけだったのです。

世間は、小平選手の胸の内に泣き崩れる李相花 選手 と見たかも知れません。しかし、李相花 選手からも小平選手に「いい記録だったね」と言葉をかけているそうです。

そして李相花 選手の涙も、悔し涙ではありません。直後の記者会見で、2014年のソウルでのワールドカップで小平選手が初優勝(2位は李相花 選手)した時、李相花 選手が空港までのタクシー代を出してくれた(報道されてませんが、おそらく、資金難にあえぐ当時の小平選手の状況をそっと悟って)というエピソードが披露されましたが、小平選手の「(よりによって地元の大会で負けて)本当は悔しいはずなのに・・・」という言葉に対し、きっぱりと「奈緒に負けて気を悪くしたことなんかないわ」と応じています。

この涙は、2連覇の後の辛い故障からの立ち直り、それに反して異常とも言える3連覇への重圧からの開放などが交錯し、溢れたもの。李相花 選手自身は「オリンピックに向けて今まで小平選手と2人で一生懸命に走って来た。それが本当に終わりだと思ったら涙が出てしまった。」と語っています。

(講演では触れられていませんが、)実はあのシーンの直前まで、2人の間には「不仲説」がささやかれていました。

それは、李相花 選手が、マスコミに、小平選手と比較されるような質問をあまりに多く受け、自分は自分のやるべきことに集中するという旨を前面に出す余り、インタビューで、「私は私」と強調したり、小平選手を「あの選手」と呼んだりしたからだろうと、後に本人が分析しています。

小平選手も同じだったのでしょう。海外のメディアからの「李相花 選手が絶好調だが、どう思うか?」といった類の質問に対し、そのまま返球することはなかったと、講演で言っていました。

 

結城コーチのこんな教えを紹介されました。

別のスライドでも、勝負事はとかく「他人を蹴落としてでも・・・」となりやすいが、それは本当のスポーツの戦い方ではない。「自分を高めて勝つ」のが正しく、それには、自分を引き上げてくれるライバルをこそ大切にする必要がある、と。

また別のスライドで、本番は“ごまかし”がきかない。「本当の自分が試される」などの教えを紹介いただきました。受験生にも身に染みる言葉です。

マラソンのようにかけひきのある競技はまた別かも知れませんが、試合の直前に、まして、滑走順が異なるライバルについてインタビューされたところで、口には出せねど正直なところ「眼中にない」というのが一流アスリート、ということなのでしょう。

平昌で小平選手の次に滑った李相花 選手も、前の組の小平選手の滑走が見えない場所にあえて身を置き、小平選手の順位も記録も考えずにスタートラインに立ったそうです。

 

滑走後の小平選手が応援団に静かにするよう求めたのも、一般には、次に滑る選手への気遣いのように解釈されていると思いますが、小平選手自身の思いには、微妙なニュアンスのズレがあったようです。

他の選手の環境条件が悪かったことが原因で自分が勝っても、喜べない。お互いが最高のパフォーマンスを発揮した結果の勝利に、意味がある。小平選手自身の言葉を借りると、「フェアに戦うために」となります。つまり、気遣いとか礼儀とかエチケットとかいった問題ではなく、スポーツの最高峰における「戦い」を(「自分のため」にも)実現するためだったのです。

 

平昌の金メダル当日の話だけでさえ、こんなに「発見の連続」でした。この境地に至るまでの12年間の話は、とてもここには書き切れないのをお察し願います。

成績が上がらない時は報道されることはなかったけれど、「泣いてばかり」の12年間だったそうです。

 

以下、本当に断片的ですが、印象的だった話のごく一部を抜き書きいたします。

 

結城先生に師事するため信州大学に入学するには、「スカウト枠」の類が存在しません。国立大の、しかも体育系の学部ではなく「教育学部」ですから。小平選手は、一般入試をクリアしています。質の高い卒業研究も遂行し、論文の時期には睡眠時間を削ってでも練習との両立をはかったそうです。当然、十分な練習はできないながらも、その環境から学べるものは多くあったそう。卒業後も、伸び悩む時期(特に、単身、オランダに武者修行に行った時期は、単純な成績上は成果が上がらず、身体の仕上がり度もかえって落ちた)もあったが、結果だけでなく、結果を、精神力、ひいては「生きる力」に、変える「過程」が大事。即座には成果が出なくても、オランダ選手との圧倒的体格差を目の当たりにし、脚の1ストロークで進める距離を伸ばすフォーム改造をしないと世界では戦えないことを悟ったことが、ずっと後に生きることになります。

結城先生曰く、「失敗も成功もすべて『正解』 『覚悟』をもつと『勇気』が生まれる。」

また、チャレンジ中の課題がクリアできた時や、何かに手ごたえをつかんだ時には、「金より嬉しい銀や4位もある」とも。

 

大学のトレーニングルームは、ホームセンター等で安価に購入したカーペットやボード等を、選手(=信州大の学生)と結城先生が自らDIYよろしく貼り付けた部屋に、中古でもらい受けた、あるいは、コツコツ少しずつ買いためたウェイトトレーニング等の器具を置いた、手作り感満載の空間。学生たちは、Mウェーブを使う時以外はここで身体を鍛えるとともに、結城先生その他の理論を勉強し合い、理論を実際に生身の身体で感覚的に実践できる方法を模索するため、ゼミのような勉強会を開いています。小平選手は、卒業後の今もなお、この勉強会に参加し(つまり大学に通い)、後輩と一緒に勉強しているそうです。

そのノートは極めて緻密。右と左で肺の大きさが違う。だから一方の肋骨の下から〇番目を意識してこの動きをすると良い、などという細かいレベルの話に至るそうです。「骨盤の右側と左側を別々に意識する」なんて、素人には感覚がまったく掴めません。脊椎1つの単位で動きを制御できるよう、小平選手は、本番前のアップで、他の選手が自転車こぎマシーン等を使う中、我が道を行き、独り黙々とヨガのような動きをします。このような不随意筋を使えるようにする地道なトレーニングは、効果が実感できるまで時間がかかることでしょう。まして、自分一人だけが他人と違ったことをやって成果が出ない時は、記者のような凡人なら不安で不安でしょうがないものです。でも、理論に間違いがないから、続ければいつか必ず成果につながると師を信じられる絆がすごい!

 

PTAの集まりだからと結城先生が聞かせて下さったご両親の話も若干だけ。

小平選手は1つの大会でいくつもの種目に出場します。初めに出た種目で振るわなくても、大会の途中で持ち直すのも大事な精神力となります。ある大会で心のバランスを崩し身体が思うように動かなかった時、大会の途中でご両親が結城コーチを通じて間接的に伝えたメッセージ。

「私たちはここにいるだけで幸せ。ほかに望むことなんてなにもない。いつも通り伸び伸びと滑る奈緒の姿が見たい。」

 

また、

https://www.kodama-mirai.org/award02

の冒頭の、お父様の言葉を詳しく解説していただきました。

 

熱弁をふるう結城先生

 

前述のオランダ行きは、小平選手を少し「独り立ち」に近付けたようです。

結城先生は、小平選手から次のように言われた時、(そりゃ、ま、確かに、選手とコーチの正しい理想のあり方なんだけど・・・)頼られていない私はちょっと寂しい、と本音をのぞかせていました。う~ん、わかる気がする。

 

スライドはたくさん見せていただきましたが、結城先生のコーチとしての接し方は、こちらが一番わかりやすいのでは?

 

食事の大切さも教えていただきました。

トレーニング終了から食事開始まで間がないのが疲労回復上、理想だそうで、これ全部、小平選手 自ら、帰宅して20分以内で作れるんだそうです。速いのはスケートだけじゃなかった!

あれだけの厳しいトレーニングをするアスリートにしてみれば、結城先生曰く「痩せるのは簡単」だとか。良質の脂質をあえて摂取し(1升瓶のオリーブオイルを買ったりするんだそうな)、脂を「溶かし出して」筋肉質の身体を作るには、ストイックな食事管理も必要です。好物のチョコミントも、たま~に、ほんの一片。(毎日、晩酌でビール腹の記者には耳が痛い!)

 

さて、忘れないでいただきたい。小平選手の最終目標は、オリンピックで金メダルをとることではありません。目下、500m,1000mの両方で、世界記録(特に1000mでは、すぐには更新されない突出した記録)を狙いまだまだ修行中。先日、真のライバルであった李相花 選手が先に引退を発表した時は、さすがに丸一日ほど放心状態だったそうですが・・・。

そして本当の夢は、「教師になる」こと。そのために教育学部を出たんですもの。

今回の講演にしても、小平選手のコーチとしての立場からだけでなく、教育学部の先生というスタンスが色濃く出ていた点が興味深かったです。

 

 

話は尽きませんが、最後に、武高PTA一行の帰路の雑談で、皆が一様に「この境地は凄い!」とうなずき合ったスライドがこれ。

平昌の金メダル翌日に、海外メディアから、「アスリートとして自分自身を表現する言葉」を聞かれて小平選手が答えた言葉

 

途中休憩なし、連続100分ほどの時間が、驚きと感動の連続で、ちっとも長く感じませんでした。なりやまぬ拍手に、講演の素晴らしさが、聴衆の興奮と感動が、表れていました。

 

もし、今回の大会の主催者が、講演を動画に収めておられ、データをお借りでき、お許しいただけるものならば、武高PTAの全会員に(おそらく校長先生のお立場からは、全教職員と、全生徒にも)、視聴して欲しい、そんな気にさせる講演でありました。

 

 

大会終了後、すぐ近くの善光寺に参拝して帰路につきました。

「お戒壇めぐり」を体験し、これで皆、極楽浄土へ行けるんだとか。

いや~、中身の濃い、良い旅でした。

 

来年の北信越大会は、福井にて。皆さん、是非、奮ってご参加下さい!

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